こんばんは、こんにちは、ゴヨラジパーソナリティのホシノ伍曜です。
本日も最後までお付き合いよろしくお願いします。
さて、本日はですね、最近YouTubeの動画を色々観ていて、この人の生き様がすごいなと感銘を受けた人がいたので、ご紹介したいと思います。
みなさん、「武井壮」ってご存知ですか?
百獣の王に俺はなるって言って、地球上のどんな生物とも戦って、2万戦無敗とか言って、猛獣の倒し方とか面白おかしく語るという話芸で、人気になった人ですが、陸上の十種競技で元日本記録保持者だったという経歴の持ち主です。
そんな彼の生き様を彼本人が各所で語っていたことをここではまとめてご紹介していきたいと思います。
それでは、本日もゴヨラジスタートです!
武井壮、十種競技日本チャンピオンになるまで
武井壮さんは、1973年生まれで、同じ世代には、イチローさんを筆頭に、プロゴルファーの片山晋呉さん、福島晃子さん、プロ野球選手だった小笠原道大さん、松中信彦さん、黒木智宏さん、三浦大輔さん、柔道の篠原信一さんなどなど、スポーツ選手だけでも錚々たるメンバーが名を連ねる黄金世代です。
ま、この頃は、第2次ベビーブームだったので、人口の層も厚かったから必然的にスーパースターが生まれやすかったのかもしれませんね。
武井壮さんは、小学生の頃に両親が離婚し、母親は家を離れ、父親は別の家庭を持っていたため、兄の武井情さんと二人で暮らしていました。
その日生活していくことも苦しい状況で、学校に通い続けるには、勉強で一番になって学費免除をしてもらうしかないということで必死に勉強したそうです。
幼少の頃から、柔道や空手などの格闘技を習っていたり、父親の影響(ゴリ押し)で隣町の少年野球のチームに入っていたりと、スポーツの素養はあったようです。
野球をしている中で、コップを持って口に持っていき、飲む動作は間違うことが絶対無いのに、なぜ全打席ホームラン打てないんだろうと疑問に思ったことがキッカケで、身体の使い方について独自に研究をしていきます。
武井さん曰く、目の見える範囲の動作は間違うことが無いけど、足を踏み込む、バットを振る、ボールを投げる動作は、目の見える範囲の外で行うので、思った通りの動作が出来ていないんだという結論を導いて、その後は、自分が思った通りに身体を動かすことにフォーカスして、トレーニングしていったそうです。
中学、高校と野球をしていて、高校では甲子園を目指してプロになることを夢見ていましたが、勉強で一番にならないと学費免除してもらえないため、勉強を優先してプロになることを断念します。
しかし、その間も独自の理論で、自分が思った通りに身体を動かすというトレーニングを続けていきます。
大学の進学については、名前がかっこいいからという理由で「神戸学院大学」に進学しますが、独自の理論でトレーニングすることを邪魔されないように、名門で優秀な先輩や指導者がいないようなところに進学したかったとも話しています。
大学1年の頃は、特に陸上競技を始める気はなかったが、見学のつもりで練習に参加していたところ3日目でコーチの目に留まり、沖縄合宿に参加することになります。
そこから、短距離の方に進んでいくが、合宿で同室になった「朝原宣治」に、このままではこいつに勝てないと思い、十種競技に転向を決意していきます。
ここでも自分が思った通りに身体を動かすこと、フィジカルを強くするということを中心に練習を進め、十種の技術的な練習はほとんどしなかったそうです。
自分が思った通りに、自分の身体を動かすことができれば、競技の上手な選手の動きをマネして動くこともでき、フィジカルを強化すれば、その動きで記録を伸ばすことができるという独自の理論を実践し、十種競技を初めて、2年半で日本チャンピオンになり、当時の日本記録を更新するという快挙を成し遂げました。
武井壮、陸上からゴルフ、野球に転向した経緯
十種競技で活躍する最中、中学を卒業して坂上忍さんの付き人をしながら俳優を目指していた兄が、ガンでこの世を去ってしまいます。
その時、人生ってこんなに儚く散ってしまうんだと、思い知った武井さんは、それと同時に十種競技で日本一になったにも関わらず、誰からも注目されず、求められていないことを痛感し、求められなければどんなにすごいことを成し遂げても評価されないという考えに至ります。
そこで、求められる人間になること、志半ばでこの世を去った兄の想いを継いで、芸能界を目指すことを決意していきます。
芸能界を目指すに当たっては、野球とゴルフは外すことができないスポーツコンテンツだと考え、実際に自分で経験した上で、芸能に生かしていきたいという思いから、大学卒業を機にプロゴルファーを目指して、アメリカに渡ります。
メーカーが完全サポートしてプロゴルファーを育成するというプロジェクトに応募して、抜群の身体能力を披露し、アメリカへの切符を勝ち取りますが、このまま続けてもセンセーショナルな結果にならないと、3年で帰国。
その後、台湾プロ野球のコーチに応募して、見事採用され台湾に渡ります。
そこでは、陸上競技で培ったフィジカル面でのコーチをしながら、プロの野球技術を学んでいきます。
その年、そのチームの盗塁数は倍増し、自身もプロのピッチャーから三塁打を打つまでになったそうです。
武井壮、芸能界を目指したきっかけ
先ほども言いましたが、俳優を目指していた兄の志を継ぐという思いと、どんなにすごいことをしても誰にも知られていないと、それは無いものと一緒ではないかという思いから、芸能界を目指していきます。
そこで、芸能界への取っ掛かりとして、萩本欽一さんの野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」に入団します。
その時に、極楽とんぼの山本圭壱さんと知り合い、のちに芸能界への道が大きく開けていくことになります。
欽ちゃん球団に入団して1年後、欽ちゃんから「お前の顔が(負け顔をしているから)嫌い!」と言われて球団をクビになります。
その後、山本圭壱さんの「神様」という球団に入って、野球を続けていきますが、ある時山本さんに食事に誘われた時に、実は山本さんが昔入っていた草野球チームの唯一の後輩として武井さんの兄を可愛がっていたという運命的な繋がりが判明します。
そこから、山本さんに武井さん本人も可愛がってもらえるようになり、西麻布のバーで多くの芸人たちと交流を深めていきます。
その西麻布のバーで多くの芸人と交流していくうちに、「百獣の王」として動物と戦うというネタが生まれていくことになります。
ある日、そのバーで牛乳を飲みながら犬のおやつ(牛の骨)を齧っている姿が、ピエール瀧さんの目に止まります。
「何してんの?」と声をかけられた時、「百獣の王になるために顎を鍛えてるんす!」と答え、何だのヤベェ奴は、と気にかけてもらい、芸能界デビューへの足掛かりを掴んでいきます。
芸能界でブレイクするきっかけとなったのは、中居正広さんが司会をしていた「うもれびと」という番組でした。
その頃には、動物の倒し方というネタがある程度完成されており、それを引っ提げてフジテレビに乗り込みます。
正確には、マネージャーを雇い、知り合いのプロデューサーを紹介してもらったという経緯で、フジテレビに乗り込んだそうです。
そこで、動物の倒し方を披露し、ちょうど新番組として始まる「うもれびと」のスタッフに紹介されました。
その時のディレクターから、「山本圭壱さんとお知り合いですか?」と質問され、山本さんが謹慎する前に自分の草野球チームの身体能力が凄くて面白い奴がいるから、よろしく頼むとお願いされていたということを知らされます。
そして、うもれびとでブレイクを果たし、「笑っていいとも!」のレギュラーを勝ち取るまでになっていきます。
エンディング
武井壮さんの生き様を語らせていただきました。
色々なメディアで、ご本人が語っているのを伺って、武井壮さんは、ただ身体能力が高いだけでなく、未来を見据えて、自分の頭でたくさん考え抜いて、今の活躍に至っているんだと知りました。
体力の人というイメージから、実は知力の人だったことを知って、大きくイメージが変わりました。
有名であるが故に、色々と批判的な意見もあるかもしれませんが、私はここまで活躍してきた努力を素直に尊敬したいと思います。
私にはできなかったことをやってきた人なので、これからの人生の参考にしていきたいと思います。
それでは、ゴヨラジもそろそろお時間となってしまいました。
また機会があれば、感銘を受けた誰かの生き様を語ってみたいと思います。
お相手は、ホシノ伍曜でした。
じゃぁまたね〜!