皆さん、こんばんは、ゴヨラジパーソナリティーのホシノ伍曜です。
今日も始まりましたけども、今回は新しいコーナー「That’s談」ということで、特にテーマを設けずに雑談するというコーナーです。
テーマを設けないって言いながら、今回のお話は「競馬で一番泣いた話」というテーマで、ケイエスミラクルという競走馬のお話をしたいと思います。
それではさっそくいってみましょう!
ケイエスミラクルってどんな馬?
私が競馬を始めたのは、オグリキャップの引退レース、1990年の有馬記念からだったのですが、ほぼG1レースしか観てませんでした。
そこから少しずつサラブレッドのことを知るようになって、競馬の面白さ、奥深さが分かり始めてきて、でもまだ表面的なところでしか観ていない、いわゆる馬券的なところでしか観ていませんでした。
1991年、この年に4歳(現在では3歳)にデビューした遅咲きの競走馬が、ケイエスミラクルでした。
ケイエスミラクルは、アメリカ生まれの持ち込み馬だったので、クラシックに出られないし、そもそもデビューしたばかりで出走条件も満たしていませんでした。
なので、最初の頃は全然知らなかった馬でしたが、札幌競馬場で、石狩特別をレコード勝ちしたのをキッカケに、その名前を知ることになりました。
札幌で活躍したってことで、愛着が生まれたのか、当時トウカイテイオー、ダイタクヘリオスの次くらいに好きな馬になっていました。
ケイエスミラクルは、主に1200m〜1600mを得意とし、札幌競馬場(石狩特別)と京都競馬場(オパールステークス、スワンステークス)で当時のレコードタイムで勝利もしていました。
ケイエスミラクルを襲った悲劇
私は後で調べて知ったことなのですが、生まれつき日本脳炎を持っていたが克服するも、デビュー前にケガを負い、4歳になってようやくデビューに漕ぎ着けたそうです。
そんな生い立ちから、ミラクルと名付けられ、デビュー後はまさにミラクルな活躍を見せていました。
特に、スワンステークスでは、安田記念を勝ったダイイチルビー、その後マイルCSを勝つダイタクヘリオス、その年の有馬記念で単勝万馬券の大波乱を起こすダイユウサク、前年スプリンターズS覇者バンブーメモリーなど、強豪ぞろいの中でレコード勝ちをおさめて初の重賞制覇を成し遂げる。
マイルCSでは、ダイタクヘリオス、ダイイチルビーに敗れての3着。
その手応えを持って臨んだ電撃の6ハロン、スプリンターズS…
鞍上は、南井克巳から乗り替わった岡部幸雄騎手。
前半の3ハロンは、32秒2というハイペース。
道中は中団につけていたが、最終コーナーを回って直線に入ったところで、4番手あたりにつけ、ここから抜け出そうというところで、ズルズルと後退してしまう…
道中後方につけて、直線で一気に抜け出して2着に4馬身差をつけて勝利したダイイチルビーとは対照的に映っていました。
左後ろ脚の粉砕骨折ということで、レース後に予後不良となってしまいました。
当時から岡部騎手は馬の事を第一に考えて騎乗する騎手として有名だったこともあり、まさかあの岡部騎手が騎乗する競走馬が…と、私のショックは計り知れないものでした。
この時、競馬の本当の姿を知った…
1991年は、クラシック戦線でトウカイテイオーが皐月賞、日本ダービーの2冠を達成後、左後ろ脚の骨折で長期休養となっていた。
サラブレッドの故障は、致命傷になるということを知ってはいたけど、それが目の前で現実のものとなってしまったことにショックを受けました。
スプリンターズSの翌日のスポーツ新聞で、「予後不良」という文字を見て、最初は言葉の意味が分からなかったんだけど、記事を読み進めるうちに事の重大さを理解していきました。
2連続のレコード勝ちが疲労を蓄積させてしまったのか、前半のハイペースが影響したのか、色々原因はあるかもしれないけど、私がもうひとつショッキングだと思ったのが、馬のことを第一に考えて騎乗する岡部騎手が乗っていても、このような不幸が起こってしまうのだという事でした。
デビューから8ヶ月目の出来事だったこともあり、もし無事だったらもの凄い活躍をしていたかもしれないと、今でもつい想像してしまいます。
長年、競馬を観ている人なら、一度は経験するかもしれないことをこの時、初めて痛感しました。
これが競馬の本当の姿なんだろうな…と。
エンディング
さて、今回は、競馬で一番泣いた話ということで、ケイエスミラクルという馬のお話を致しました。
新コーナー「That’s談」ということで、雑談をただ喋るという企画でした。
また、思い立ったらお話ししていきたいと思います。
それでは、そろそろお時間となりましたので、本日はここまで。
お相手は、ホシノ伍曜でした。
またね〜!!